私とギター   加藤繁雄

●ギターとの出会い

 私とギターとの出会いはまったく運命的なものだった。北海道の片田舎の農家の長男として誕生した私は、健康体であったらなら現在どのような仕事をしているか予想ができない。農家を継いでいるのか、会社勤めなのか、公務員なのか…。しかし運命は私がこの世に生を受けたときにすでに決まっていたように思えてならない。そう、私は「先天性両股関節脱臼」だったのだ。当時の小児医学でも完治する病気の一つであるが、条件がある。誕生してすぐに脱臼検査を受けるという条件だ。しかし私は産婆さんに取り上げられ、脱臼検査は受けていない。両親が、どうも歩き方が変だ、病院で検査したほうがいいと判断したのは私が3歳のときだった。名湯で知られる出湯の町、登別の整形外科病院での入院生活は、湯煙のようにおぼろげな記憶しか残ってない。小学校入学前には退院し、普通に歩いていた記憶があるだけだ。


 学校ではオルガンが好きだった。小学1年のとき教室にあるオルガンで童謡だか小学校唱歌を手探りで演奏できたのを聞いた先生が、「今朝は加藤君にオルガンを演奏してもらいます」といわれ、照れ隠しのためにオルガンのふたで顔を隠しながら演奏した記憶がある。あと、2年生の時だったと思うが、音楽の授業で「…ということです。これを知っておけば知らない曲でも演奏できるようになるのですよ」と先生が言ったときに、何かに気をとられ「…」の部分を聞いていなかったことをずいぶん後悔した記憶がある。今にして思えば音符の長さの説明だったと理解できるが、ギターに出会うまでこの後悔はずっと続いていた。(それゆえ記憶に残っているかもしれない)小学校で記憶にあるのは牛乳と肝油、薪ストーブ。そろばん塾に行ったこと、生徒会長だったことなど…。

 私の小学校生活は6年終了間際に突然一変した。持病が再発したのだ。幼少のころの主治医は同じ病院の副院長として勤務していた。検査の結果、約半年の入院は必要との宣告を受け、「中学校で合いましょう!」とクラスの仲間に別れを告げ、私の入院生活が始まった。

 当時はフォークブームで私がいる小児病棟は何人かの中学生が病室でギターを弾いていた。規制の少ない自由な空間だった。両親にねだって6,000円(田舎では大金!)の全音ガットギターを買ってもらったのが最初のギターとの出会いだ。左の股関節を手術後、白いギプスは足首から胸元まで覆われ、ベッドで寝ながら黙々とギターに取り組んでいた。頼りにしたのはギター歌謡教本だったと思う。私が入院した病院は「整形外科」専門病院であるため長期の入院をする患者が多く、病院内に付属の小中学校を備えていた。

 術後3ヶ月ほどしてようやくベッドから起きれるようになった時は、「禁じられた遊び」などを弾いていたように思う。新中学生としての学校生活も始まった。そこでめぐり合った鈴木先生が私の最初の恩師だ。どうも私は“凝り性”で“ハマる”性格だと思う。ギターはあっという間にマスターしたらしい。(毎日8時間の練習ができた)色々なギター曲集を片っ端から弾いていた。全音楽譜から出版されているギターエチュード集をほぼ全部。同じく全音の古典ギター名曲全集や、音楽の友社のセゴヴィアアルバムなどを弾いた。夜9時の消灯で照らされる豆電球にバッハのシャコンヌの音符だらけのアルペジオ部分を映し、うっとり眺めていた記憶がある。

 鈴木先生はギターを弾くわけではないが、私のそんな熱の入れ方に「何とかこいつを応援してやろう」と思って自らギターの練習を始め、ギターレコードを次々と買っては聞かせてくれた。イエペス、セゴヴィア、パリコン1位入賞者が録音した赤レベルなどのレコードは学校のプレイヤーで何度も聞いた。特にイエペスの楽譜が付いたレコードは、楽譜を全部書き移して練習した。さらに「現代ギター」「ギターミュージック」など当時のギター雑誌を与えてくれた。病院生活は井の中の蛙同様、世の中の情報から隔離されている世界とも言える。鈴木先生が与えてくれた刺激で、私はなおいっそうギターを弾いた。

2002年2月23日帯広で鈴木先生と


 学校の文化祭でも先生のギターをお借りした。「アルハンブラの思い出」「アストリアス」などの独奏や鈴木先生と私が中心になって作ったギタークラブの合奏などを披露した。私は当初“鈴木先生はギターが好きだからギターを弾いたり、レコードを買ったりしているんだな”としか思っていなかったが、ある日絵のうまい女性が入院し、すばらしい絵を描くのを見た鈴木先生は自ら絵の通信教育を始めた。そして、私と同様その女性にも絵に関するさまざまな情報を与えたときに、“自らの体験を通して人の才能を伸ばす為に努力している”事がわかった。私は鈴木先生と出会えたことで今の自分があると思っている。

 半年の入院生活のはずだったが、両足というのは厄介だ。右足の手術を終えてリハビリ−の毎日を過ごしていたが、その間歩行で使っていた左足が悪化の一途をたどった。術後の右股関節も回復は遅かった。結局登別には2年間入院し、今度は左足の手術のため、札幌にある肢体不自由児総合療育センターに転院することになった。鈴木先生は自分のギター(当時3万円)を私に餞別でくれたのだ。私が登別を去るときの鈴木先生の顔は、なんとも淋しそうだった。

●札幌時代

 札幌の施設も登別と同様、病院と学校が一体になっている。入院当初は検査に次ぐ検査だった。股関節脱臼にかかっている人は多いが、私の場合は前例が比較的少ない珍しいケースということだ。登別では大腿骨の骨頭に対して骨盤の屋根が小さいために屋根を大きくする手術を受けた。今度は左股関節にいかなる手術を施すかの論議があったようだ。そしてでた結論が「股関節固定術」ということだった。このことを主治医に告げられて私は悩んだ。ギターが弾けなくなるのではないか…。私にとってもうギターは体の一部だ。ギターが弾けなくなるくらいなら手術は受けたくない…。医師に「手術は受けない」と断ったが、「ギターが弾けなくなるから」という理由は伏せた。理解してもらえない気がしたからだ。医師は「加藤君は考えが甘いなあ…」と半ば呆れ顔に、半ば諭すように言った。「社会にでたら困るのは君なんだ。そこのところを良く考えて結論を出しなさい」

 医師の言うことはもっともだ。しかしギターの無い人生は考えられない。私は、股関節の固定されている状態を想像して演奏してみた。股関節の固定とは、人が立っているときもっとも安定する状態が広角30度で、中心からは15度になるように固定するという。その状態でいかにギターを弾くか…。「できた!こうすればいいんだ!」いろいろ試行錯誤した結果、ついに自分のギターフォームを見つけることができた。「手術受けます」といったときの医師の安堵の表情がいまでも脳裏に焼きついている。

 札幌での学生生活はなかなかユニークだったと思う。音楽の先生が指導していた全校生によるブラスバンドで私はトロンボーンを受け持った。まったく初めての楽器だったが、マウスピースを血だらけにしながらもどうにか音が出るようになり、発表会ではブラームスのハンガリー舞曲第6番やチャイコフスキーの白鳥の湖などをブースカ演奏した思い出がある。今でも熱中している囲碁を覚えたのもこの頃だ。手ほどきは一つか二つ上の先輩だった。学校の先生や病院の医師も囲碁好きが多く、先生方は暇を見つけては病室で相手をしてくれた。はまる性格がここでも出て、初段まではあっという間だった。現在碁会所では6段で打っている。(もちろんアマチュアの棋力ですよ!)


 入院患者は小中学生で占められている施設だが、その中でもっとも多い病気は「ポリオ」だった。片足に成長障害が出て歩行が困難なため、その足を人工的に骨折させ、骨がくっつきそうになると骨を引き離して人工的に骨を伸ばす「延長術」を行う患者さんが多かった。現在この手術が行われているかどうかは知らないが、なんと残酷な手術をするんだろう、と思ったものだ。それに比べれば私の病気などたかが知れてる。自分の病気を恨んだり、残念に思ったりするのは自分の人生がもったいないからね!

 札幌の入院生活は2年間に及んだので、中学を卒業して1年間浪人生活を送ったことになる。もっとも心配だったのは高校受験だった。高校はギターの道を歩むべく、音楽大学の付属高校などを考えていたが、両親はその道を大変心配し、結局公立の普通高校を第1志望にすることにした。マア自分ではいかなる学校に行こうともギターをあきらめたわけではないので、それはそれでいいか、割と呑気に考えていた。

 学校と入院の2本立て生活だと、教科書を見ても授業を受けた記憶のない箇所がある。ほとんどの科目で参考書を丸まる1冊やり直す必要があった。受験勉強する上で最大の難関は「消灯時間」だった。病院は午後9時には消灯するので、どうにも困った。当初は病室の豆電球でこっそり勉強していたが、本当に目が疲れた。(このせいで視力が落ちてしまった。)唯一明るい場所は詰所(ナース・ステーション)かトイレだ。詰所はマア無理と考え、早速トイレに籠もって勉強したのだが、病室を見回りに来た看護婦さんに見つかってしまう。しかしこればっかりは何度注意されてもやらざるを得なかった。「蛍雪時代」は蛍の光や窓の雪で勉強する話だが、私の場合「便所灯時代」とでもいえますかね。受験間際には何とか勉強も間に合い、念願の苫小牧東高校に合格できた。

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